
遡ること1941年、近江真綿布団の産地からスタートした寝袋メーカーNANGAは、F/CE.®にとって欠かせないプロダクトパートナーだ。寝袋製造のノウハウを応用したダウンウェアのコラボレーションは2018 AWシーズンで通算6回目の取り組みに。F/CE.®の洗練されたデザイン性とギミック、NANGAの確かな技術と品質を纏ったダウンウェアは、ファッションとアウトドアの垣根を越えて、大きな話題を巻き起こしてきた。
このインタビューでは第4回にわたり、F/CE.®ディレクターの山根敏史とNANGA代表の横田智之氏のコラボレーションにかける思いに迫っていく。
第1回目は横田氏による、NANGAが寝袋メーカーとして成長していくストーリー。
Photo : Shouta Kikuchi
Text&Edit : Shota Kato
布団も寝袋づくりも波に乗らない最悪のスタート
—— 現在はアパレルも展開していますが、そもそもNANGAは寝袋メーカーとして始まりました。改めて、NANGAの歴史について聞かせていただけますか?
弊社の先々代は先代とともに布団の加工を始めたんです。弊社から車で20分くらいのところに旧近江町の多和田という地区があって、そこは当時の布団の3,4割を生産していた地域なんですね。その地域から僕らは仕事を請け負う形として起業していきました。経営者が先代に変わると布団作りは終わりを迎えるのですが、布団の作り先が変わってきたという事情が大きくて。多和田地区の生産が海外に移りつつあるなかで徐々に僕らの仕事量も減少していき、儲からないような商売になっていったんですね。そのときに先代が布団の加工をやめるという経営判断をとりました。そこで僕らにできることを見つめ直したときに、これまで培ってきた布団づくりの技術を寝袋に活かせるんじゃないかと考えたんですよ。
—— その当時からNANGAブランドとして寝袋を製造していたのですか?
いえ。今から35年前くらいになりますが、当時の国内の寝袋メーカーはモンベルとイスカくらいしか代表的なところがなかったんですよ。その2つのアウトドアブランドが国内の寝袋シェアをほとんど取っていましたね。大企業のモンベルにはなかなか話を聞いてもらえず、まずはイスカと商談してみようということになって。先代がイスカとの商談に行くと、たまたま先方は工場を探している時期で、うまくマッチングして、寝袋作りをお手伝いすることになったんです。当時のイスカの主力商品だった「カプセル2」という化学繊維の寝袋の大半はウチが作っていたと記憶しています。それから布団と寝袋の割合を徐々に変えていき、数年後には売上の約90%が寝袋の加工だけで成り立つ形に変わっていきました。
—— 今でこそ根強いアウトドアブームが続いていますが、当時のアウトドア人口は今ほどではなく、むしろかなり少なかったはずですよね。それでも寝袋だけで商売が賄える状況に変えていけたのはすごい。
やっと基盤ができたという実感がありましたが、イスカから寝袋の国内生産を止めるという連絡があったんですよ。突然、ウチの仕事が無くなることが決まってしまって。布団の加工が売上の10%以下という状況なので、社員を食べさせていけません。先代は廃業するのか、違う何かの加工請けを考えるのか、かなり頭を抱えていました。ウチは加工請けというポジションに嫌気が差して、自分たちがメーカーとしてモノを売るというノウハウを考えて、継続できる道を探してみた。その結論として、NANGAの前身であるコスモスという寝袋ブランドを立ち上げたんです。同時に、外部から営業マンを一人引き抜いて、その方と自社ブランドとしての寝袋を作り始めたという。でも、これもうまくいかなくて(苦笑)。
—— 今度はどんな苦難があったんですか。
先代とその方は工場長と営業という立場でありながら共同経営者だったんですよ。なので、営業権利を持っていたのは先代ではありませんでした。そうすると、営業の方の権力が強まっていったんですね。営業と工場って絶対に揉めるじゃないですか。工場側としては、この安い単価では無理だから単価を上げてこいと言いますし、営業としてはこの単価以上では商談がまとまらないから維持、あるいはコストダウンしてくれと言い合う。そうすると、自社の商品なのに自社で生産しなくてもいいという結論になるんですよ。
—— つまり、以前のクライアントから取引がなくなった状況が、今度は社内で起きてしまったということですか?
そうなんですよ。意見があわなくて営業の方は独立してしまって。そこでウチは横田コスモスという社名になって、コスモスの社名はその方に譲ったという。今ではコスモスは無くなってしまいましたが、コスモスは海外への縫製にシフトしていきました。当時の営業ルートは全てこの方が持っていたので、また横田コスモスはアウトドアの営業ルートがゼロになってしまうんですね。頑固な先代は自分自身で営業と工場の責任者を兼ねると言い始めたんです。これがNANGAとして立ち上がる、今から30年くらい前の話になります。
一度リセットして、最も険しい道をあえて登っていく
—— 寝袋を作るノウハウは持っているのに販路がないというのは、なんとももどかしいですね。
ええ、まったく(苦笑)。私はまだ入社していませんでしたが、バブル絶頂期に先代は地獄を見ていたんじゃないかなと。両方とも寝袋を作っている横田コスモスとコスモスという紛らわしいブランドが営業先でバッティングするんですから。しかも、主力の営業ルートにはコスモスが既に入っている訳ですよ。僕らは大手には入れずに地方の個店との契約に尽力しました。5本、10本の単位で。しばらくすると、コスモス側から社名変更の相談が舞い込んできて。そもそもコスモスという社名は先代が付けたものなのに。どうして、こちらがその名前を外さなきゃいけないのか、あまりにも理不尽で辛かったですね。
—— コスモスという社名の由来は?
先代は華道の師範なんですよ。だから花にちなんだ名前をつけたという(笑)。文句を言われるのならば、潔くまったく被らない新しい社名に切り替えようということで、NANGAというブランドが立ち上がっていくんですよね。NANGAはヒマラヤ山脈を成すナンガ・パルバットという山に由来します。ヒマラヤ山脈にまつわる名前は各ブランドが商標を取っている状況だったので、アウトドアブランドとして僕らの新しい名前を探していった結果、ナンガ・パルバットに着地するのですが、裸という意味もあるんです。また裸に戻ってイチからやり直していく。当時、ナンガ・パルバットは世界で最も険しく、最も死人が多く出る山と言われていたので、僕らはあえて登っていくんだという意志が込められています。大手アウトドア専門店と取引口座を開けたのもここ10年以内の話ですし、NANGAというブランドは後手を踏み続けてきたうえで認知を得ていくんですよ。
ノーブランドの寝袋を売るための下地づくり
—— NANGAが支持を得ていくきっかけとしては何が大きかったのですか?
ワイルドワンとの取引が大きいですね。当時の部長と生産担当の方が滋賀の弊社に来てくださって。全面的に寝袋を作るための支援をしてほしいという相談があったんです。先代からすると、どこも取引してもらえない状況で非常にありがたい話で、当然リスクはあったと思いますが、ワイルドワンのPB(プライベートブランド)のためにできる限り協力しました。それがきっかけとなって、やっと寝袋の商売が始まっていくんですね。
—— NANGAブランドではなく、まずはOEMとしてワイルドワンのPBである寝袋の製造から始まったと。
ワイルドワンさんにはPBの寝袋と当時はまだノーブランドとして展開していた弊社の寝袋を取り扱っていただいていました。そうすると、ワイルドワンさんの卸し先や仕入先から、「この寝袋、どこで作ってるの?」と聞かれるんですね。その次に手を挙げてくれたのが旧サンクレストさんのPBであるポーラルートでした。そこの寝袋を作るお話をいただいたのが20年前くらいでしょうか。これらが功を奏して、東京都内をはじめオリジナルの寝袋を作りたいというオファーが続々と押し寄せてきたんです。
—— NANGAというブランド名を浸透させるためには時間がかかるけど、工場としての機能があるということが大きかったんですね。
中堅規模の取引先に僕らの自社ブランドではなく、彼らのPBとして寝袋を作って提供していく。そうやってチャネルを増やしていくという戦術でした。この時くらいに僕が入社するのですが、当時のダウンの寝袋ってめちゃくちゃ高いという印象がありますね。よく低価格だけどノーブランドの寝袋を買ってくれたなと憶えています。営業車に約200本の寝袋を積んで、滋賀の本社から北方面を回っていくのですが、絶対に全部売れるんですよ。それで本社に帰ってきて、また200本くらいを積んで西方面に出かけていく。そうやって当時は製造元NANGAとだけ書いてある寝袋を売るための下地づくりを頑張っていましたね。
—— 取引先から評価されていたのはどんな部分ですか?
寝袋は布団でもあるので、昔から培ってきた布団づくりのノウハウですね。それを寝袋づくりに応用できたのは工場として培ってきた技術に他ならないですし、それに伴って生地や素材の選定の目も評価していただいたと思います。お客様に対してNANGAと寝袋の魅力をしっかりとプレゼンテーションしてくれるお店では、モノの良さがしっかりと伝わって売れていくんですよ。特に東京都内ではストーリーに共感して購入してくださる方が多くて、僕らの寝袋の良さが伝わって売れていくことが立証されるのは嬉しかったですね。
—— その当時の主力商品もダウンの寝袋だったのですか?
そうですね。現在展開している「DOWN BAG」はノーブランドの低価格帯寝袋の後発モノですし、NANGA独自の防水透湿素材「オーロラテックス®」を使ったシリーズも当時からの主力アイテムです。今は「UDDBAG」というさらに軽量に特化した寝袋は当時と生地は違うものの「POLISH BAG」というラインナップとして販売していました。透湿防水、軽量、低価格帯という3つの軸は当時からずっと変わっていませんね。
3代目として事業化させたダウンウェア
—— 現在は寝袋で培ってきた技術を応用して、ダウンジャケットの製作も手がけています。
最初に作ったダウンジャケットは、先代がどこかの製品を分解して型紙を作ったんですよ。だから、ノウハウなんて全くなくて。それで自分たちで作り方を考えてみたというのが始まりですね。寝袋はある程度売れるようになった一方で、ウェアは年間100着くらいしか作っていなくて、僕らにとっては寝袋のおまけでした。
—— もともとあった工場で培ってきた知見や技術の活かし方が上手いというか。布団、寝袋、ダウンジャケットと変化できたのはシンプルなようで難しいことだと思います。
僕らは工場の機能を活かした形の商売を模索する、という観点なんです。僕が三代目の経営者になりますが、誰が寝袋を作ったのかと問われたら、それは僕ではないんですよ。僕は営業に携わってきたけれども、苦労を担って形を作ってきたのは先代なんです。先代がやってくれたことに対して、僕は二番手でしかなくて悔しい思いをいつも抱えていました。そこでNANGAの新しい可能性としてダウンウェアを事業化させてほしいと頭を下げて。当時はたかが600着のオーダーだったのに納期遅れを起こして、最終的に出来が悪くて大赤字でした。当然そうですよね。ダウンジャケットを作るノウハウはなかったんですから。経験値がゼロに近いなかでオーダーを受けてきたから、そこで得た経験は本当に大きかった。
—— 足りないものはどうやって補っていったのですか?
僕らにないもので大きかったのはウェアの縫製技術ですね。岐阜には婦人服の工場がいっぱいあったので、僕らの縫製をお願いできる会社を2,300件くらい手当たり次第で探しました。そうやって協力会社に支えられながら、はじめてダウンジャケットで結果を出せたのが13年くらい前になりますね。寝袋がある程度軌道には乗っていたけど、それに比べたら少ないダウンジャケットの売上をものすごく喜んだことを憶えています。今はF/CE.®をはじめ、いくつかのブランドとコラボレーションできるというありがたい状況にありますが。
—— 今では多くの人たちが使っているNANGAの寝袋だけでなく、ダウンウェアも紆余曲折を経て生まれてきたものなんですね。
そうですね。主力アイテムの寝袋は特に(苦笑)。